こんにちは。最近、ビジネス書とか実用書なんかを読んでいても、なんでだろう・・・昔ほど感動できなくなっているしょぼいサラリーマンの豆作(マメサク)です。
いやぁ〜、ひさしぶりに骨が折れる読書体験でした。
そして、面白かった。
なんなら、ちょっと人生が変わった気がします。
なぜ、この本を読んだのか?
そりゃあ、「暇」だし「退屈」な自分に悩んでいたからです。
本書『暇と退屈の倫理学』はこんな人におすすめです。
本書は、暇と退屈の正体について過去の哲学者たちの論じてきたことを考察し、批判すべきは批判し、僕たちが感じている暇と退屈とはいったいなんなのか?暇と退屈に対して僕たちはどうすればいいのか?という問いに著者の結論を示すというスタイルの本です。
僕が知らないだけで、哲学の本というのはこんな感じなのかな?
さっそくですが、本書の結論は次のとおりです。
これだけじゃあ、「は?」ってなると思いますが・・・、僕は本書を通読してとても著者の結論に共感しました。
というか、通読しないと本当の意味での本書の結論はわからないのです(著者も本中でそう述べています)。
僕は、この本を読んでから、日々、少しずつ考え方が変わってきている自分を認識しています。というか、本書を読む前の自分はどんな考えだったのかが分からなくなってしまいました。
それくらい僕にとってはパンチ力のある本でした。
ここまでで、一人の人間の考え方を変えるくらいの影響力があるこの本を読んでみようと思った人は、これより先は読まないで、下のリンクから本書を購入して読んでみてください。
この記事は、僕なりのまとめと感想になります。
この記事で本書の内容をちょっとつまみ食いしてから、読んでみようかなって思う人は、引き続きよろしくお願いします。
『暇と退屈の倫理学』の構成
本書の構成はこんな感じです。
本書は著者の結論に向かう道筋を体系的に示し、僕たちにも考えるネタを提供してくれていると思いました。
過去の哲学者
本書『暇と退屈の倫理学』で紹介されるトップバッターはブレーズ・パスカル[1623-1662]さんです。
パスカルさんは「考える葦」で有名ですが、日常生活においては圧力の単位である[Pa(パスカル)]がパスカルさんに由来していますので、僕たちにとってとても身近な偉人です。
どうやらパスカルさんって皮肉屋で世間をバカにしているところがあるようです。
そんなパスカルさんの皮肉を『暇と退屈の倫理学』は出発点としています。
パスカルさんはこんなことを言っています。
人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋でじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。
おろかなる人間は、退屈に耐えられないから気晴らしを求めているに過ぎないというのに、自分が追い求めるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる。
ブレーズ・パスカル
パスカルはウサギ狩りのたとえ話でこのことをさらに皮肉ります。
狩りとは、買ったりもらったりしたのでは欲しくもないウサギを、重い装備を持って、1日中、山の中を駆けずり回ることである。
人は獲物が欲しいのではない。退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、ひいては、みじめな人間の運命から目をそらしたいから、狩りに行くのである。
だというのに、人間ときたら、獲物を手に入れることに本当に幸福があると思い込んでいる。
ブレーズ・パスカル
要するに、人間は退屈に耐えられないので、気晴らしがしたいという欲望を持っている<欲望の原因>。だからどうでもいいようなことに理由や意味を与えて熱中する<欲望の対象>。でもそれは、<欲望の原因>と<欲望の対象>を取り違えているので根本解決にはならないよ。だから幸福になんてならないよ。それっておろかだよねってことです。
だから週末になると、やれBBQだの、やれカラオケだの、やれクラブだの・・・サイコーだぜ!って言ってるあなた。それ、取り違えてますよ。
そう思って、陰キャな僕はニヤリとしました。
しかし、パスカルさんは僕のような奴を見越してこう言っています。
<欲望の対象>と<欲望の原因>を取り違えている者はおろかである。そして、知ったような顔をして、そうしたことを指摘して回っている連中はもっともおろかな者である。
ブレーズ・パスカル
ぐふぅ・・・。そうです僕がもっともおろか者です。
そこまで言うなら、教えてくださいよ。じゃあ、どうしたらいいんだい?パスカルさんよ。
パスカルさんの回答はこうです。
それは神への信仰である。
ブレーズ・パスカル
お、おぅ・・・。
確かにそうかもしれないが、信仰心のない僕には何の解決にもならない回答だ・・・。
パスカルさんのお話はここまでで、ここから著者がパスカルの論を次のように展開します。
気晴らしは「熱中」できなければ意味がない。気晴らしが熱中できるものであるためには、お金を失う危険があるとか、なかなかウサギに出会えないなどといった負の要素がなければならない。
この負の要素とは広い意味での苦しみである。負荷と言ってもいい。つまり気晴らしには苦しみや負荷が必要である。
ならば次のように言うことができるはずだ。退屈する人間は苦しみや負荷をもとめる、と。
著者
これには、なんとなく身に覚えがある気がする・・・。
さて、次に登場する哲学者はフリードリッヒ・ニーチェ[1844-1900]さんです。
ニーチェさんはパスカルさんのことがとってもお気に入りだったようです。
ニーチェさんはその代表的な著作『悦ばしき知識』(1882年)のなかでこんなことを言っています。
いま、幾百万の若いヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。彼らを見ていると自分はこう考えざるを得ない。彼らは「何としてでも何かに苦しみたいという欲望」をもっている、と。
なぜなら彼らはそうした苦しみのなかから、自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいからだ・・・。
フリードリッヒ・ニーチェ
もう、なんか、すごいエネルギーが有り余っているけど、やることがなくてとにかく燻っている若者がこの時代の街中にたくさんいたのでしょうね。
以下はニーチェさんではなく著者がこのことを分かりやすく補足してくれた内容です。
苦しむことはもちろん苦しい。しかし、自分を行為に駆り立ててくれる動機がないこと、それはもっと苦しいのだ。
何をして良いのか分からないというこの退屈の苦しみ。それから逃れるためであれば、外から与えられる負荷や苦しみなどものの数ではない。自分が行動へと移るための理由を与えてもらうためならば、人は喜んで苦しむ。
著者の補足
これ、なんかちょっと分かります。仕事でいつもならやりたくないようなことでも、暇で何かすることないかな〜?ってときにその仕事が回ってきたら「よっしゃ。やるか!」ってなりません?
ちなみに、僕のしょぼい共感話なんかよりも、このことの延長線上で恐ろしい出来事があったことを歴史が示しているのです・・・。
それはさておき、ニーチェさんの著書『悦ばしき知識』の内容なんて知らないですけど、そのなかに書かれた「神は死んだ」というフレーズは誰しもが耳にしたことがあると思います。
「神は死んだ」という言葉の指すところは、「宗教批判と虚無主義」とのことですが、著者はニーチェが『悦ばしき知識』のなかで「退屈」を取り扱い、パスカルをたくさん引用しているところから、直接の言及はないにせよ「神は死んだ」という言葉になんらかの意図を感じるらしいです。
その考察、かっこいい!!
ここまでのパスカルさんの論をもとにして、ここからは「暇と退屈」の問いに答えるべきかという議論に入っていく。
それでは登場してもらいましょう。イギリスの哲学者バートランド・ラッセル[1872-1970]さんです。
ラッセルさんは1930年に『幸福論』を出版し、そのなかでこんなことを言いました。
取り立てて不自由のない生活。戦争や飢餓の状態にある人々なら、心からうらやむような生活。現代人はそうした生活を送っているのだが、満たされていない。近代社会が実現した生活には何かぼんやりとした不幸の空気が漂っている。
ー中略ー
日常的な不幸には、そうした非日常的な不幸とは異なる独特の耐え難さがある。何かと言えば、原意が分からないということである。
バートランド・ラッセル
うん。うん。分かります。
そして、ラッセルさんはこの何だかよく分からない不幸に対して、「一つの治療法」を提案しようと試みてくれます。
おぉ〜。それで?それで?
ラッセルさんの考える退屈と何か?
退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。
人は毎日同じことが繰り返されることに耐えられない。「同じことが繰り返されていくのだろう」と考えてしまうことにも耐えられない。
だから、今日を昨日から区別してくれるものをもとめる。もしも今日何か事件が起きれば、今日は昨日と違った日になる。つまり、事件が起きれば同じ日々の反復が断ち切られる。
しかし、そうした事件はなかなか起きはしない。こうして人は退屈する。
バートランド・ラッセル
ん?事件?コナン君的な?どういうこと?
著者いわく、事件はただ今日を昨日から区別してくれるものであればいいので、事件の内容はどうだっていい。不幸なものでも悲惨なものでも。しかも、他人だけではなく自身に降りかかる不幸でもいい。退屈する人間はとにかく事件が欲しいのだから。人間は自分が不幸になることすらももとめうる。・・・と。
なるほど。
ここで大事な観点として、事件は別に楽しいわけではない。というところです。
僕たちは「楽しくない」から退屈だと感じている。だから退屈の反対は「楽しさ」だと思っている。確かにそれは間違いではないのだが、そうではなくて事件から得られる「興奮」であるというところがポイントです。
退屈な人は事件のように、外から自分を興奮させてくれるようなものや出来事を求めているというのです。
このことは、とても受動的な挙動ですよね。事件を待つというスタンスですから。つまり、能動的に「楽しさ」を求めることがとても難しい行為であると言えます。
ラッセルさんはこう言います。
幸福な人とは、「事件」ではなくて「楽しみ」や「快楽」を求めることができる人であると。
バートランド・ラッセル
そして著者は、我々が「事件」ばかりを求めていることから分かるように、「快楽」や「楽しさ」をもとめることがいかに困難であるかがわかると言います。
では、どうやって幸福な人になれるというのですか?(話がそれているような気がするけど)
熱意。幸福であるとは、熱意をもった生活を送れることだ。
バートランド・ラッセル
熱意をもって取り組める活動が得られれば幸福なのだそうです。
仕事、趣味、主義主張を信じること。熱意を持てる活動はたくさん転がっているとラッセルさんは主張しています。
著者はこれに意を唱えます。
熱意をもって取り組むべきミッションを外側から与えられること、それを幸福と言って良いのだろうか?熱意さえもてればいいのだろうか?
著者
それはつまり、パスカルのいう気晴らしではないか?と。
うん。確かにそうだ。
さて、次に登場する哲学者はスヴェンセン[1970- ]さんです。
スヴェンセンさんはその著書である『退屈の小さな哲学』で退屈についての答えを述べています。
退屈が人々の悩み事となったのはロマン主義のせいだ。
ありもしない生の意味や生の充実を必死に探し求めており、そのために深い退屈に襲われている。
スヴェンセン
えっ?ロマン主義?・・・ってなに?
安心してください。著者がめっちゃ分かりやすく説明してくれています。
ロマン主義は、普遍性よりも個性、均質性よりも異質性を重んじる。他人と違っていること。他人と同じでないこと。ロマン主義的人間はそれをもとめる。
いま風に言えば、「みんなと同じはいや!」「私は他人と同じでありたくない!」「私らしくありたい!」。
著者
ということは、僕はロマン主義的な思想を少しはもっていることになるな。
えーっと、ということは・・・それが退屈の原因だから、ロマン主義的な考えは捨てて、「みんなと同じでいい!」「私は他人と同じじゃないといや!」「個性なんてどうでもいい!」と?
これで退屈から逃れられるのか?
著者もこのスヴェンセンの論についてこう言っています。
ロマン主義的退屈はやはり退屈の一つにすぎない。
パスカルの扱った退屈がロマン主義で説明し切れるかと言えば、そうではあるまい。
退屈をロマン主義に還元する姿勢はとても支持し得ないし、彼の解決策にはまったく納得できない。
著者
うん。うん。そうですよね。そう思います。
ここまでで、今まで「退屈」というものの実態を深く考えていなかったし、まだまだ形にはなっていませんが、それでも少しずつ言語化されてきているように思いませんか?
まだまだ、本書では退屈についていろいろな哲学者さん(僕レベルでも聞いたことがあるような、ルソーとかマルクスとか)が登場して、論を積み上げていきますが、ここら辺で著者の推しの論へ移りたいと思います。
著者「推しの論」
先に謝っておきますが、著者は「これが推しの論だ」なんてことは一切言っていません。僕が勝手に本書をそう読んだだけですので悪しからず。
では発表します。その論者とは、哲学者マルティン・ハイデッガー[1889-1976]さんです。
著者いわく、ハイデッガーさんの著書『形而上学の根本諸概念』は退屈論の最高峰なんだそうです。
書店に並べられていても絶対に手に取らないタイトルすぎて笑えます。
ハイデッガーさんは「気分」というものを徹底して重視した哲学者だそうで、「退屈」というものを気分の切り口から哲学していきます。
まず、ハイデッガーさんは退屈を次のように定義します。
退屈はだれもが知っていると同時に、だれもよく知らない現象だということである。
マルティン・ハイデッガー
はい。納得です。
そして、ハイデッガーさんはこのなんとなく理解されている退屈を二つに分けました。
マルティン・ハイデッガー
- 何かによって退屈させられること
- 何かに際して退屈すること
うーん。ニュアンス的なものはなんとなく分かる気はするけど・・・
そして、ハイデッガーさんはこの二つの退屈を次のように呼んでいます。
マルティン・ハイデッガー
- 退屈の第一形式
- 退屈の第二形式
この第一形式と第二形式というのは単に退屈を分類しているのではなくて、第一形式の先に第二形式があるとハイデッガーさんは定義しています。
それじゃあ、退屈の第一形式とはなんなのか。
退屈の第一形式
ものが言うことを聞いてくれない。そのために、私たちは<空虚放置>され、そこにぐずつく時間による<引きとめ>が発生している状態のこと。
『暇と退屈の倫理学』P-249
本書にこのこのとをめちゃくちゃ分かりやすく説明したハイデッガーさんの例が記載されていますので、詳しくは本書にて。
無謀にも退屈の第一形式を僕なりの例で説明しようと思います。
自分の仕事がひと段落したので、以前からやりたいと思っていた社内横断プロジェクトを進めようとしたら、承認を得なければならない上司が忙しくて承認が得られない【ぐずつく時間による引きとめ】。だからといって一人ではこれ以上進めることは不可能だ。どうしよう・・・。やることもできることも何もない【空虚放置】。・・・退屈だ。仕方がない、デスク周りの整理整頓でもしてやり過ごそう・・・。
このことはなんとなく共感してもらえるのではないでしょうか。
退屈には、この【ぐずつく時間による引きとめ】と【空虚放置】が関わっているということです。
では、退屈の第二形式となんなのか。
退屈の第二形式
主体の際している状況そのものがそもそも暇つぶしであり、退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合っている状態のこと。
『暇と退屈の倫理学』P-259
むずっ。
それでも無謀にも退屈の第二形式も僕なりの例で説明してみます(もちろん本書では分かりやすい例で説明がされていますのご安心を)。
仲間数人で小旅行を計画。それなりに有名な観光地が多く、料理やお酒も美味しいと評判の旅館を予約し、楽しみにしていた小旅行だ。確かに旅行雑誌の通りに綺麗な観光地だったし、旅館も評判通り素晴らしい。気の知れた仲間とのたわいもない会話も楽しい。それでもなんだかよく分からないが退屈だ。
こんな状況なんとなく感じたことありませんか?僕には経験があります。
ハイデッガーさんの言う退屈の第二形式は、この旅行自体が気晴らしのために行われているのに、それなのに退屈してしまっている。退屈から救ってくれる気晴らしが私たちを悩ませている。という論ですね。
そして、退屈だということは、退屈の第二形式にも第一形式と同じく、【空虚放置】と【ぐずつく時間による引きとめ】があるということです。
退屈の第二形式でいうところの【空虚放置】とは、僕の頼りない先ほどの例で見ると、観光地をみんなでガイド雑誌の通りに回り、お喋りをしながら調子を合わせてみんなと一緒にいる。一緒にいることに自分を任せっぱなしにしている。観光名所や料理なんてどちらでもいい。これでいい。これで心地がいいんだ。・・・こうやって自分自身で空虚な状態を作り、そこに自分を放置してしまう。
では、退屈の第二形式でいうところの【ぐずつく時間による引きとめ】は何を指すのか?どこもぐずついた時間などないように思います。自分達でコントロールされた時間のなかにいると思うのですが。
ハイデッガーさんは、それでも【引きとめられている】と言います。その理由は、僕たちは時間から完全に自由になっていない。絶対に時間から自由にはなれない。だから僕たちは時間から根源的に縛り付けられている。根源的な時間への【引きとめ】を受けている。
なんか、ちょっと強引な気もしますが・・・。
ここまでで、ハイデッガーさんは次のように論をまとめています。
退屈の第一形式と第二形式はなんとなく理解しました。
そこからハイデッガーさんは、さらに深いところまで考えていきます。
退屈の第一形式は外部からやってくる。退屈に対抗する退屈の第二形式は自分の内部からやってくるので第一形式よりも「深い」。けど、まだ気晴らしが可能。というか気晴らしの行為のなかにいる。
それよりももっと「深い」、どうすることもできない退屈を考える。
そして、退屈の第三形式として次のように述べています。
なんとなく退屈だ
マルティン・ハイデッガー
こ、これは、すごい。もはやただのツイート・・・。
ハイデッガーさんは、一応退屈の第三形式の状況を次のような例で紹介してくれています。僕ごときでは第一形式や第二形式のときのように例を作ることができませんでした。orz
日曜日の午後、大都会の大通りを歩いている。するとふと感じる、「なんとなく退屈だ」。
マルティン・ハイデッガー
う〜ん・・・。これって、いつも感じているやつかな・・・?
さらにハイデッガーさんは「退屈の第三形式ではもはや気晴らしは許されない」と言います。
退屈の第一形式は気晴らしをしてなんとかやり過ごそうと抵抗することができる。退屈の第二形式はそもそも気晴らしのなかにいるのでかろうじて気晴らしが可能だ。でも、退屈の第三形式では私たちは気晴らしが許されないということを分かっていると言います。
え、えぇ〜?自分で分かっているって?何言ってんの?・・・怖い。
さらにハイデッガーさんは、これを「退屈からの声」で表現します。
なるほど。「退屈からの声」という表現だとちょっとイメージしやすくなったように思います。
つまり、その声を聞きたくないから僕たちは気晴らしをするのであって、強制的にその声が聞こえてくる第三形式の場合は、なす術がないというわけですね。
ハイデッガーさんの言う「退屈」の正体が見えてきました。
では、ハイデッガーさんは「退屈の第三形式」に置かれた人間は、その声を聞き続けなければならない。すると嫌でも自分を見つめ直すしかない。そして、人間は「自由だ」と言うことに気が付き、自分の可能性を見出し、その自由を「決断」によって発揮せよ!と言っています。
つまり、退屈すぎて自分を見つめ直したら、「あれ?俺のやりたいことって〇〇じゃね?」って気が付くから、あとはそれを「やる」と決めろ。そうすることで「退屈」は消える。ってことか?
うん。わかる。その結論自体は否定しないし、言わんとしていることもわかるけど・・・。なんか「ほんとに?」ってなるうえに、このままでは、え〜っと、あれ?この本は自己啓発本でしたっけ?ってなります。
著者も、このハイデッガーの結論は受け入れ難いものがあると明言されています。
しかし、ハイデッガーの「退屈」に対する分析が極めて優れていて、特に「退屈の第二形式」の発見に大きなヒントがある。と、評しています。
というわけで、著者はこのハイデッガーの「退屈」の分析を自論の展開に使うために「推しの論」としているのでした。
「推しの論」のここがダメ
著者は、ハイデッガーの退屈の分析を素晴らしいとし、退屈の第二形式の発見を高く評価していることは先述の通りです。
一方で、ハイデッガーの結論は次の理由によりおかしいとも言っています。
この著者のいう無限ループを、退屈の第一形式のところで前述した僕の例え話の続きで次のように表してみます。
- 今の仕事では、周りの影響でやりたいことが思うようにできない
- ものすごく退屈だと感じている
- 退屈の第三形式の深淵で、自分を見つめ直し、ハイデッガーの言う「決断」によって進み始めたとする
- 自分のやりたいことは〇〇なんだ。よし!起業するぞ!!
- いい感じだ。事業もそこそこ上手くいっている
- いよいよ起業後初めてのプロジェクトも大詰めだ!!
- あとはクライアントから承認を得るだけだ
- くそっ。なかなかクライアントから承認が得られない
- 担当者によると承認は半年後に予算が取れてからと連絡があった
- ・・・やることが、なくなった・・・退屈だ。
確かにこれでは、解決にはなっていないですね。
ついに暗礁にのりあげたか?
推しの「論」のイケてるところを生物学の力でブーストする
その領域が「生物学」です。
著者の結論に至るために、生物学の力を借りるこの章が個人的にとても大好きです。
では、生物学の何を取り込もうとしているのかというと、
です!!
環世界とは、Wikipedia的には以下のように説明されています。
すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、それを主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間(Umgebung、「環境」)も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。
Wikipedia
難しいですね。
本書では「トカゲ」や「ダニ」などでこの環世界の説明をしてくれており、この概念をしっかりと理解できるようになっていますので、ご安心を。
本書に詳しく環世界についての説明があるとはいえ、僕なりの解釈で頑張って説明したいと思います。
生き物はその生き物の生き方で世界を捉えており、自分とは異なる生き物の世界を生きることは難しいです。
チョウチョが急に思い立ってカマキリの世界観で行動を始めるなんてことはできません。
チョウチョにはチョウチョの環世界、カマキリにはカマキリの環世界があって、簡単にはお互いの環世界を移動することはできないというわけです。
そして環世界を簡単に移動することができないということは、チョウチョはチョウチョの環世界しか知らないということになります。
つまり、チョウチョはチョウチョの環世界を精一杯生きることで完結していますので、退屈の原因である「引きとめ」とか「空虚放置」と言ったものがそもそも存在しないと考えられます。
著者はこの環世界の概念を「退屈」に持ち込もうというわけです。
人間は他の生き物と比較して物事を考える能力が高いことは、まぁ言わずもがなですよね。
それがゆえに人はこの環世界を意図も簡単に移動することができるというわけです。
他の生き物のように自分の環世界だけを精一杯生きていれば「退屈」にならずに済んだものを、考える力が高いがために別の人の環世界に手を出してしまうというロジックです。
例えば、今すぐにでも別の人生を送っている自分を想像することってできますよね。僕はしょっちゅう裕福で自由な自分を想像してしまっています。笑
他人の環世界に移動したとしても結局は元の自分の環世界に戻ってこなくてはなりません。
するとどうなるかというと、現実の自分も理想の環世界に到達したいと思いますよね。でも、そうなりたいと思っても、自分の生活や仕事などによる「引きとめ」が起こります。そしてどうにもならないという「空虚放置」を味わいます。
「引きとめ」と「空虚放置」が退屈の原因でしたよね。環世界を移動すると退屈してしまうというわけです。
環世界という概念を入れることで、僕たちの感じている「退屈」というものの姿をとらえられるようになったと思いませんか。
さて、環世界の概念を取り入れたことで「退屈」の正体がより鮮明になったことに加えて、ハイデッガーの「退屈の第二形式」に何やらヒントがありそうだという状態で、いよいよクライマックスです。
著者が出す『暇と退屈の倫理学』の結論
僕は著者の出した結論がとても好きです。本書を読んでよかったなと思います。
僕が通読して解釈した著者の結論はこうです。
全然違っていたらごめんなさい。。。
これは、ハイデッガーの退屈の第二形式を肯定的にとらえている感じですね。
「勉強する」って書きましたが、その対象は気晴らしの中で出会う自分が興味を持ったものについてですので、例えば、アニメでもいいし、釣りでもいいし、映画でもいい。なんでもいいのです。やっぱり気に入らなかったら次の気晴らしをすればいい。とにかくただ深みにハマろうということです。
どうです?なんだか気が楽になりませんでしたか?
僕はめっちゃ楽になりました。
感想
冒頭にも書きましたけど、この『暇と退屈の倫理学』は僕にとってはものすごく影響力のある本でした。
久しぶりに「ちゃんと読書をしたな」って感じました。
僕の感想なんか大して意味なんかありませんが、それでも述べさせてもらうなら次の通りです。
よっしゃ!今日から Let’s 気晴らし!!
ぜひ、本書を最初から通読してみてください。人生が変わるかもしれませんよ。
最後まで読んでくださり、ありごとうございました。